マグカップの呪いと、淋しさについて
お気に入りのマグカップを割ってしまった。
割ってしまったのだけれど、ぱっと見る限りは使えそうで、すぐには気づかなかった。
いつものように朝、沸かしたお湯を注いでテーブルに置いて、歯磨きをするために洗面台に向かった。
歯磨きから戻ってマグカップを見たら、お湯がじわじわと流れ出ていた。
劇的な別れ(たとえば手を滑らせてバリン!と音がして粉々に割れるとか、そして破片で手を切るだとか)じゃないけど、これはもう使えないんだなあ。みたいなことをぼんやり思いながら、そこからひと口、お湯を飲む。
マグカップへ、最後の口付けです。
最後のキスの味は無味。
そしてなんでか、ほっとした。
このマグカップとはどういった出会いだったっけ……と記憶を辿る。
そうだそうだ、むかしに恋人とお揃いで、一緒に暮らすんだからって買ったものだった。ベタなことしてて笑えます。
ベタな理由で買ったマグカップでしたが、使い勝手がよくデザインも気に入っていてずっと使っていた。
買った理由さえ忘れるくらい、ずっと使っていた。
忘れるくらい、使っていたはずなのに。
おそらくこのマグカップには、誰かと暮らしたいとか、一人だと大人になれなそうだとか、そういう、若かった頃の憧れとか情念みたいなものが移っていて、それを捨てれなかった自分は、もしかしたらずっと「誰かと暮らすしあわせ」みたいなのに呪われて一人で生活してたのかもなあ。なんて思ったのでした。
マグカップが割れてくれて、ようやくその「誰かと暮らすしあわせ」の呪いが解けたような気がする。
「ひとりのしあわせ」を肯定されたみたいなかんじ。
呪いをかけたのは自分自身で、そして呪いを解くのも自分自身だなあ。
この世には誰かにキスされて解ける呪いなんてなくて、たいていは日常のちょっとした事で呪われたり救われたりする。
私は私にキスするかわりに、誰かにキスされるかわりに、マグカップにキスするくらいしかできない。
こういう茶番みたいなことが、一人暮らしの部屋では繰り返されております。
今は誰とも会えないから、「ひとりのしあわせ」よりも、誰かと顔を合わせられるタイプのしあわせの方に、気が向いてしまいがちだけど。
マグカップが割れてほっとしている自分には、まだまだ「ひとりのしあわせ」が必要なのかもしれません。