愛は出し惜しみをして使う、ということへの実感。そしてこれからのこと。

そろそろまた1つ歳を重ねるので、今月に入ってからは生きてきたこれまでをなんとなく思い返す日々です。

 

この世に人間として生まれてきて、自我を持ちはじめてから、30年は過ぎました。

凡庸だけれども、これだけの年月をかけて人間をやっていれば、それなりに嫌なめにもあっているし、幸福の味もちゃんと知っている。

 

とりあえず、よくここまで生きてこれたと自分を褒めることにします。えらい。

 

これは、遺書みたいなものです。

以下のことを、新しい年齢になる私に託します。

 

 

① 時間は有限

当たり前といえば当たり前なのだけれど、20歳の頃の1年の体感時間は1/20、今は1/3n になってる。当たり前なのだけれど。

1年の経つスピードがどんどん速くなってく気がするのは、気のせいじゃない。

 

仕事をしていると、プライベートで使える時間って、思ってるよりもずっと少ない。

そこからさらに、生きていくために使う時間(睡眠、家事など)を引いたら、自分自身に使ってあげられる時間って、とっても少ない。

学生の頃や20代の前半の頃で感じていた、時間が有り余るようなそれは、もう二度と来ないのだから。

その時間を、無駄遣いしないようにしていたい。

 

無駄遣いというのは、たとえば自分に有益にならない人と会うことや、気持ちがマイナスになる行為をすることです。

逆に、自分の心が豊かになるなら、他人から見て無駄だと思われることでも自分に与えてあげること。

たとえば、好きな場所に行って深呼吸するとか。美味しいものを食べるとか。

 

そして意識的に「何もしないをする」というのもやっていくこと。

私には絶対に、絶対に必要な時間です。

ただ怠惰に横になっているように見える時でも、私は思考を止められないのだから。そして、それにはとても労力が必要。

何もしないをすると言っても、本や漫画は読んでいるしきっと音楽は流れているはず。

あと絶対にTwitterやってるから……

 

 

② 有益にならない人付き合いをそろそろ見極めていい

これまでは、できる限りあらゆる人と話をしてみて、経験値を貯める方向で人と向き合っていたけれど、そろそろ自分の経験値もそこそこになってきたはず。

もう積極的に、痛い目見そうな人と関わらなくて良いんじゃないか。

 

単純に、自分の抱えられる人間関係には上限数がある。

そしてその範囲を出てしまうと、一人一人に対してずさんな付き合いになってしまいます。

ずさんな関係なんて、質がいいわけがない。

質の悪い人間関係なんて、どんなに数を増やしても質は悪いまま、有益になど転じない。

 

それから、これは悲しい事実だけれど、自分を利用しようとする人や、自分の足を引っぱる人がいる。そういう人とは距離を置いていい。

そして、そういう人を愛せない自分に、絶望しなくていい。

愛は出し惜しみして使いなさいって、野ばらちゃんも言ってたじゃないか。

 

やたらと最初から仲良い風を装ってくる人、スキルのみを褒めてくる人、同情心を煽るような話ばかりしてくる人、必要以上に依存しようとしてくる人、女としての役割ばかりを求めてこようとする人には、踏み込まない。

たいていは善人の着ぐるみを着ているから、第一印象で「おかしいな」と思ったらそれを忘れないこと。

これまでで第一印象がおかしかった人と良い関係でいられたことなんて、ないじゃないか。

私はすぐ人を好きになってしまうから。そして、その後で悲しくなるのだから。

そろそろ学習をしようぜ……

 

有益にならない、と書くと冷たい印象だけれど、つまりは自分の心が悲しくなるような人とは距離を置くようにする、ということです。

一緒にいて楽しい気持ちになれるとか、心が安らぐとか、そういうのは立派な「有益」である。

逆に、いくら客観的に有益そうな人だとしても(仕事関係etc)、自分が辛くなるような人は長い目で見たら「不利益」です。

そこを見誤らないようになりたい。

 

自分にとって有益な人間関係を築くのだったら、相手から見ても有益な人でいたいものです。

イーブンでいたい。

そうじゃない関係は、いらないと思う。

一方が利を得る関係とか、耐えられないし、たとえそういう関係になったとしても、おそらく私は与える側に回ってしまうから。

 

慣れ合うとか慰め合うのとかは、本気で辛い時は必要な場合もあるんだろうけれど、そういうのを主軸とした人間関係なら、どんな人であれ一切いらない。

そんな関係は、関係維持のためにどちらかが必ず不幸でないといけない。

そんなの不健康すぎるでしょ。

 

それにもう私は、お互いにとって有益な、よい関係でいられる人は、本当に心底落ち込んでいる時にそっと手を差し伸ばしてくれたりすることを、実感として分かっているはず。

「大丈夫?」とか野暮なことも聞いてこず、ただただそっと、「ココニイルヨー」程度の存在を示してくれる人が、今もいるわけで。

 

そういう人間関係を大切にしていくには、不利益なんかに構ってる暇はないんだ。

 

 

③ 自分が思う、等身大の魅力的な人間であれ

これには少しの緊張感が、必要。

 

ただし、頑張りすぎなくてよい。

自分の無理のない範囲で、できる心配りをすること。

そして、自分が魅力的だと思ってもらえるように、せめて自分の中で及第点を与えてあげられる程度の人間でいられたらいい。

 

変に自分を誇張したりもしなくていい。そんな仮初なんて、そのうちバレます。

等身大の自分を好いてくれる人に対しても、とっても失礼じゃないか。

 

それにはまず、毎日きちんと睡眠を取って頭をクリアにしておくこと。

二度寝してもよいから、朝だいたい同じ時間に起きられたら花丸だね。

食事も質素でよいから、1日1食は最低でも摂ること。

それから、自分の気持ちのサイクルに、今よりも目を向けてあげられたらいいんじゃないかな。

 

そうやって健康でいて、はじめて自分磨きだの自己実現だのに目を向けられるもんです。

疲れた時に、そればかりに気が向きすぎて心身を浪費したりするのは、もうやめよう。

頑張らなくていいし、頑張らない時間があるから、いざって時に頑張れる。

 

自分の甘やかし方を間違わないでいられれば、そのうち魅力なんて勝手に上がってくよ。

けっきょく私は、向上心を捨てられないんだから。

 

 

④ インプットとアウトプットは止めなくていい

特にアウトプットは止めない方が、ずっと生きやすいみたい。

そして、アウトプットの方法を言葉だけにしない。手段は何個もあっていい。

私には音楽もあるし、手を動かしてモノを作ることもできるのだから。

これはもう癖みたいなものだから、一生治らないのだし、それなら開き直って下手でも続けた方がずっといい。

 

“死ぬために生きるのが嫌でした”

cali≠gari『東京病』より)

 

この言葉が刺さる限りは、好きなことを我慢してそこそこ向いている仕事だけをする毎日なんて到底無理だし、たぶん一生患ってると思う。

そういう人間なのだから、そういうように生きるしかない。

その方がずっと息がしやすいのだから、もうそうやって回遊魚みたいに死んでいった方が、絶対に楽しいはず。

 

インプットに関しては、放っておいてもしてしまう性格なので、適度にやりましょう。

むしろ量より質を少しは意識してもいいかもしれない。

自分にとって良質なものを受け取っていくようにできたら、アウトプットももっと素敵になるかもね。

 

 

⑤ 選び取る言葉を、素敵なものにすること

常にポジティブであれ、ということではない。

ネガティブな発言だとしても、使える言葉はいくらでもあるわけで。

 

汚い言葉はそのうち自分に返ってきます。

何年も経ってからだったりするから、本当にびっくりするよ。

同じ事に対しても、言葉を変えるだけで、だいぶ違う。

結果として、自分の心を守ることに繋がるのだと思う。

 

ついでに、自分が素敵じゃないと思う言葉ばかり発する人には近づかない。

これは前述したのと重複しちゃうけど、それって不利益だから。

 

あと、どうしても感情が昂ぶってしまって、あえて汚い言葉を使う時もあるけど、それはまあよいのだ。

そのくらいは、臨機応変にいきましょう。

その場に合った文法や言語だってあるからね。

とはいえ、品よくはいたいものです。

 

素敵な言葉、というと抽象的だけれど、それは自分の心に従えばよいのだと思います。

自分が素敵だと思える言葉を毎日喋っていられるんだとしたら、それは素敵な人生のはず。

 

 

 

以上が、新しい年齢になった私に伝えたいことです。現時点でね。

現時点とはいえ、さっき15年前の自分の日記を読み返していたら、似たような事をもっとボンヤリとした輪軸で悩んでた片鱗を見つけたので、まあブレないんでしょう。

 

年齢ってただの数字だけれど、過ごした時間のぶん、ひと匙でも、何かは得ているはず。

そう思いたいし、そうやって生きてきたはずです、だって自分ですもの。

 

5年前の私が立ち止まって、きちんと向き合ってみた事に関しては、ある程度の決着もついたし、そうやって内省して自分の精度を上げていける私は、とりあえず少しは魅力的なんじゃないかと、思うんです。