虚無と猫は同居ができない
こういう日は、ブログを書くに限る。
どういう日かというと、ひどく落ち込んでいて、意味もなくさみしいような、でもずっと1人でいたいような気持ちになって、何故だか誰かに当たり散らしたくて、抱きしめてほしくて、そんな気持ちなのに涙なんてひとつも出てこない日だ。
虚無が私の隣に横たわっています。
この虚無はよく飼い慣らされているから、私の人生や日常をめちゃくちゃにしたりはしない。
ただたまにやってきて、私のプラス思考とかやる気とか、そういう善いものを食べにくる。
腹いっぱいになると、虚無はどこかへ行ってしまいます。
それを知っているので、抵抗せずに自分にあるごく僅かなそれらを食べさせてやる。
その間は、最低限のやることだけをこなして、あとはじっとしていればオーケー。
洗濯はしないし、食事は出前にします。
部屋が散らかっても気にしない。
SNSに貼り付いてるとよくない事を書き込みそうになるから、ほどほどに。
気休め程度に、バナナとか豆乳とかのセロトニンが出そうなものも食べる。
音楽は冒険せずに、聴き込みすぎたくらいの、ずっと好きなアーティストのものだけにする。
虚無が去れば、たいていは朝からケロリと元気です。
そういうのを何回も繰り返しているうちに、私もだいぶいい年齢になってしまった。
先週、祖母が他界した。
80余年ばかりをこの世で過ごして、最期は夫と子供と孫と兄弟に見送られて、まるで寝ているみたいな安らかな顔で息を引き取った。
葬儀は彼女らしい、華美すぎず、でも少しお洒落で、小ぢんまりとしていて、穏やかな雰囲気で終わった。
よかったじゃないか。と思う。
よかった。
そういうことにして、数日前に、なんとか東京に帰ってきました。
こうやってツラツラ書いていて、東京が私の帰る場所になっていることを、しみじみと思う。東京に暮らせてよかった。
故郷は故郷でしかなく、もう住む場所でも帰る場所でもない。
道がどんどん補正されていって、そろそろ私の知っている街でもなくなりそう。
東京の空気は汚いらしいのだけど、私には故郷の空気よりもずっと、吸いやすいし吐きやすい。
私の肺も、ちゃんと汚くなっているだろうか。きれいなままだと、少し困っちゃうな。
故郷にいた時に泊まっていた家には、猫が5匹ほど暮らしていた。
毎日葬儀のあれこれをこなして、疲れ果てて戻る家に猫がいるというのは、とても良いものだった。
猫を眺めたり、たまに撫でさせてもらったり、餌をやったりしている時間は、どうしようもなく優しい気持ちになってしまって、癒されてしまう。
あまりにも疲れて半日寝込んだ日があったのだけど、その日は猫が足元で一緒に寝ていた。
私は眠るのが苦手なはずなのに、猫と呼吸を合わせるとウトウトとして、夢も見ないでぐっすり眠れた。
虚無は来なかった。
次に引っ越す先は、ペット可の物件にしてみようかしら。そんな事を考えるくらいには、猫の効果は絶大でした。
引っ越した先もまた、東京のどこかである事は絶対に変わらないのだろうけれど。