マグカップの呪いと、淋しさについて
お気に入りのマグカップを割ってしまった。
割ってしまったのだけれど、ぱっと見る限りは使えそうで、すぐには気づかなかった。
いつものように朝、沸かしたお湯を注いでテーブルに置いて、歯磨きをするために洗面台に向かった。
歯磨きから戻ってマグカップを見たら、お湯がじわじわと流れ出ていた。
劇的な別れ(たとえば手を滑らせてバリン!と音がして粉々に割れるとか、そして破片で手を切るだとか)じゃないけど、これはもう使えないんだなあ。みたいなことをぼんやり思いながら、そこからひと口、お湯を飲む。
マグカップへ、最後の口付けです。
最後のキスの味は無味。
そしてなんでか、ほっとした。
このマグカップとはどういった出会いだったっけ……と記憶を辿る。
そうだそうだ、むかしに恋人とお揃いで、一緒に暮らすんだからって買ったものだった。ベタなことしてて笑えます。
ベタな理由で買ったマグカップでしたが、使い勝手がよくデザインも気に入っていてずっと使っていた。
買った理由さえ忘れるくらい、ずっと使っていた。
忘れるくらい、使っていたはずなのに。
おそらくこのマグカップには、誰かと暮らしたいとか、一人だと大人になれなそうだとか、そういう、若かった頃の憧れとか情念みたいなものが移っていて、それを捨てれなかった自分は、もしかしたらずっと「誰かと暮らすしあわせ」みたいなのに呪われて一人で生活してたのかもなあ。なんて思ったのでした。
マグカップが割れてくれて、ようやくその「誰かと暮らすしあわせ」の呪いが解けたような気がする。
「ひとりのしあわせ」を肯定されたみたいなかんじ。
呪いをかけたのは自分自身で、そして呪いを解くのも自分自身だなあ。
この世には誰かにキスされて解ける呪いなんてなくて、たいていは日常のちょっとした事で呪われたり救われたりする。
私は私にキスするかわりに、誰かにキスされるかわりに、マグカップにキスするくらいしかできない。
こういう茶番みたいなことが、一人暮らしの部屋では繰り返されております。
今は誰とも会えないから、「ひとりのしあわせ」よりも、誰かと顔を合わせられるタイプのしあわせの方に、気が向いてしまいがちだけど。
マグカップが割れてほっとしている自分には、まだまだ「ひとりのしあわせ」が必要なのかもしれません。
五年前の私へ。
5年前、野方の狭いアパートで息をするのもやっとだった頃。
人間に感情に希望的観測に、そして一番は莫迦な自分に、絶望するしかなかった頃。
すべてがどうでもよくなって、夏の日差しから逃げるようにカーテンを閉じてクーラーの温度を下げまくって毛布にくるまっていた頃。
ふと、このどうしようもなさを記録したくて、誰かに聞いてほしくて、でも知ってる人なんかには恥ずかしくて話せなくて。ストレートな文章なんかを書いてしまったら心が潰されてしまいそうで。
誰からもフォローされていないツイッターアカウントで、短歌を書いていたことがある。
そのアカウントは、何年か経ってからふとしたタイミングで仲の良い友人に知られることになるんだけど、それはまた別の話になるので割愛する。
まあとにかく、未だに知り合いですら2人、あとは短歌を書いてる方3人という、フォロワーが5人しかいないアカウントを作るだけ作って、すっかり忘れていた。
昨年は半年に一回、ポツリと短歌を書いてみたけれど、書いたら満足してしまって、やっぱりそれのことも、すぐ忘れていた。
そんな忘れていた自分の絶望を、ひょんなことでとある人に教えることになった。
あとで気に入ったものを教えてくださいと言ってみたところ、その場でひとつ、音読をしてくれた。
胃がぐるぐるするほど恥ずかしく、そして五年前の私が救われてしまいそうでかなしくて、嬉しかった。
私の絶望なんてその程度で、滑稽で、時間が経てば薄れていくんだ。
私へ。大丈夫だよ、自分は驚くほど莫迦だから。
愛は出し惜しみをして使う、ということへの実感。そしてこれからのこと。
そろそろまた1つ歳を重ねるので、今月に入ってからは生きてきたこれまでをなんとなく思い返す日々です。
この世に人間として生まれてきて、自我を持ちはじめてから、30年は過ぎました。
凡庸だけれども、これだけの年月をかけて人間をやっていれば、それなりに嫌なめにもあっているし、幸福の味もちゃんと知っている。
とりあえず、よくここまで生きてこれたと自分を褒めることにします。えらい。
これは、遺書みたいなものです。
以下のことを、新しい年齢になる私に託します。
① 時間は有限
当たり前といえば当たり前なのだけれど、20歳の頃の1年の体感時間は1/20、今は1/3n になってる。当たり前なのだけれど。
1年の経つスピードがどんどん速くなってく気がするのは、気のせいじゃない。
仕事をしていると、プライベートで使える時間って、思ってるよりもずっと少ない。
そこからさらに、生きていくために使う時間(睡眠、家事など)を引いたら、自分自身に使ってあげられる時間って、とっても少ない。
学生の頃や20代の前半の頃で感じていた、時間が有り余るようなそれは、もう二度と来ないのだから。
その時間を、無駄遣いしないようにしていたい。
無駄遣いというのは、たとえば自分に有益にならない人と会うことや、気持ちがマイナスになる行為をすることです。
逆に、自分の心が豊かになるなら、他人から見て無駄だと思われることでも自分に与えてあげること。
たとえば、好きな場所に行って深呼吸するとか。美味しいものを食べるとか。
そして意識的に「何もしないをする」というのもやっていくこと。
私には絶対に、絶対に必要な時間です。
ただ怠惰に横になっているように見える時でも、私は思考を止められないのだから。そして、それにはとても労力が必要。
何もしないをすると言っても、本や漫画は読んでいるしきっと音楽は流れているはず。
あと絶対にTwitterやってるから……
② 有益にならない人付き合いをそろそろ見極めていい
これまでは、できる限りあらゆる人と話をしてみて、経験値を貯める方向で人と向き合っていたけれど、そろそろ自分の経験値もそこそこになってきたはず。
もう積極的に、痛い目見そうな人と関わらなくて良いんじゃないか。
単純に、自分の抱えられる人間関係には上限数がある。
そしてその範囲を出てしまうと、一人一人に対してずさんな付き合いになってしまいます。
ずさんな関係なんて、質がいいわけがない。
質の悪い人間関係なんて、どんなに数を増やしても質は悪いまま、有益になど転じない。
それから、これは悲しい事実だけれど、自分を利用しようとする人や、自分の足を引っぱる人がいる。そういう人とは距離を置いていい。
そして、そういう人を愛せない自分に、絶望しなくていい。
愛は出し惜しみして使いなさいって、野ばらちゃんも言ってたじゃないか。
やたらと最初から仲良い風を装ってくる人、スキルのみを褒めてくる人、同情心を煽るような話ばかりしてくる人、必要以上に依存しようとしてくる人、女としての役割ばかりを求めてこようとする人には、踏み込まない。
たいていは善人の着ぐるみを着ているから、第一印象で「おかしいな」と思ったらそれを忘れないこと。
これまでで第一印象がおかしかった人と良い関係でいられたことなんて、ないじゃないか。
私はすぐ人を好きになってしまうから。そして、その後で悲しくなるのだから。
そろそろ学習をしようぜ……
有益にならない、と書くと冷たい印象だけれど、つまりは自分の心が悲しくなるような人とは距離を置くようにする、ということです。
一緒にいて楽しい気持ちになれるとか、心が安らぐとか、そういうのは立派な「有益」である。
逆に、いくら客観的に有益そうな人だとしても(仕事関係etc)、自分が辛くなるような人は長い目で見たら「不利益」です。
そこを見誤らないようになりたい。
自分にとって有益な人間関係を築くのだったら、相手から見ても有益な人でいたいものです。
イーブンでいたい。
そうじゃない関係は、いらないと思う。
一方が利を得る関係とか、耐えられないし、たとえそういう関係になったとしても、おそらく私は与える側に回ってしまうから。
慣れ合うとか慰め合うのとかは、本気で辛い時は必要な場合もあるんだろうけれど、そういうのを主軸とした人間関係なら、どんな人であれ一切いらない。
そんな関係は、関係維持のためにどちらかが必ず不幸でないといけない。
そんなの不健康すぎるでしょ。
それにもう私は、お互いにとって有益な、よい関係でいられる人は、本当に心底落ち込んでいる時にそっと手を差し伸ばしてくれたりすることを、実感として分かっているはず。
「大丈夫?」とか野暮なことも聞いてこず、ただただそっと、「ココニイルヨー」程度の存在を示してくれる人が、今もいるわけで。
そういう人間関係を大切にしていくには、不利益なんかに構ってる暇はないんだ。
③ 自分が思う、等身大の魅力的な人間であれ
これには少しの緊張感が、必要。
ただし、頑張りすぎなくてよい。
自分の無理のない範囲で、できる心配りをすること。
そして、自分が魅力的だと思ってもらえるように、せめて自分の中で及第点を与えてあげられる程度の人間でいられたらいい。
変に自分を誇張したりもしなくていい。そんな仮初なんて、そのうちバレます。
等身大の自分を好いてくれる人に対しても、とっても失礼じゃないか。
それにはまず、毎日きちんと睡眠を取って頭をクリアにしておくこと。
二度寝してもよいから、朝だいたい同じ時間に起きられたら花丸だね。
食事も質素でよいから、1日1食は最低でも摂ること。
それから、自分の気持ちのサイクルに、今よりも目を向けてあげられたらいいんじゃないかな。
そうやって健康でいて、はじめて自分磨きだの自己実現だのに目を向けられるもんです。
疲れた時に、そればかりに気が向きすぎて心身を浪費したりするのは、もうやめよう。
頑張らなくていいし、頑張らない時間があるから、いざって時に頑張れる。
自分の甘やかし方を間違わないでいられれば、そのうち魅力なんて勝手に上がってくよ。
けっきょく私は、向上心を捨てられないんだから。
④ インプットとアウトプットは止めなくていい
特にアウトプットは止めない方が、ずっと生きやすいみたい。
そして、アウトプットの方法を言葉だけにしない。手段は何個もあっていい。
私には音楽もあるし、手を動かしてモノを作ることもできるのだから。
これはもう癖みたいなものだから、一生治らないのだし、それなら開き直って下手でも続けた方がずっといい。
“死ぬために生きるのが嫌でした”
(cali≠gari『東京病』より)
この言葉が刺さる限りは、好きなことを我慢してそこそこ向いている仕事だけをする毎日なんて到底無理だし、たぶん一生患ってると思う。
そういう人間なのだから、そういうように生きるしかない。
その方がずっと息がしやすいのだから、もうそうやって回遊魚みたいに死んでいった方が、絶対に楽しいはず。
インプットに関しては、放っておいてもしてしまう性格なので、適度にやりましょう。
むしろ量より質を少しは意識してもいいかもしれない。
自分にとって良質なものを受け取っていくようにできたら、アウトプットももっと素敵になるかもね。
⑤ 選び取る言葉を、素敵なものにすること
常にポジティブであれ、ということではない。
ネガティブな発言だとしても、使える言葉はいくらでもあるわけで。
汚い言葉はそのうち自分に返ってきます。
何年も経ってからだったりするから、本当にびっくりするよ。
同じ事に対しても、言葉を変えるだけで、だいぶ違う。
結果として、自分の心を守ることに繋がるのだと思う。
ついでに、自分が素敵じゃないと思う言葉ばかり発する人には近づかない。
これは前述したのと重複しちゃうけど、それって不利益だから。
あと、どうしても感情が昂ぶってしまって、あえて汚い言葉を使う時もあるけど、それはまあよいのだ。
そのくらいは、臨機応変にいきましょう。
その場に合った文法や言語だってあるからね。
とはいえ、品よくはいたいものです。
素敵な言葉、というと抽象的だけれど、それは自分の心に従えばよいのだと思います。
自分が素敵だと思える言葉を毎日喋っていられるんだとしたら、それは素敵な人生のはず。
以上が、新しい年齢になった私に伝えたいことです。現時点でね。
現時点とはいえ、さっき15年前の自分の日記を読み返していたら、似たような事をもっとボンヤリとした輪軸で悩んでた片鱗を見つけたので、まあブレないんでしょう。
年齢ってただの数字だけれど、過ごした時間のぶん、ひと匙でも、何かは得ているはず。
そう思いたいし、そうやって生きてきたはずです、だって自分ですもの。
5年前の私が立ち止まって、きちんと向き合ってみた事に関しては、ある程度の決着もついたし、そうやって内省して自分の精度を上げていける私は、とりあえず少しは魅力的なんじゃないかと、思うんです。
虚無と猫は同居ができない
こういう日は、ブログを書くに限る。
どういう日かというと、ひどく落ち込んでいて、意味もなくさみしいような、でもずっと1人でいたいような気持ちになって、何故だか誰かに当たり散らしたくて、抱きしめてほしくて、そんな気持ちなのに涙なんてひとつも出てこない日だ。
虚無が私の隣に横たわっています。
この虚無はよく飼い慣らされているから、私の人生や日常をめちゃくちゃにしたりはしない。
ただたまにやってきて、私のプラス思考とかやる気とか、そういう善いものを食べにくる。
腹いっぱいになると、虚無はどこかへ行ってしまいます。
それを知っているので、抵抗せずに自分にあるごく僅かなそれらを食べさせてやる。
その間は、最低限のやることだけをこなして、あとはじっとしていればオーケー。
洗濯はしないし、食事は出前にします。
部屋が散らかっても気にしない。
SNSに貼り付いてるとよくない事を書き込みそうになるから、ほどほどに。
気休め程度に、バナナとか豆乳とかのセロトニンが出そうなものも食べる。
音楽は冒険せずに、聴き込みすぎたくらいの、ずっと好きなアーティストのものだけにする。
虚無が去れば、たいていは朝からケロリと元気です。
そういうのを何回も繰り返しているうちに、私もだいぶいい年齢になってしまった。
先週、祖母が他界した。
80余年ばかりをこの世で過ごして、最期は夫と子供と孫と兄弟に見送られて、まるで寝ているみたいな安らかな顔で息を引き取った。
葬儀は彼女らしい、華美すぎず、でも少しお洒落で、小ぢんまりとしていて、穏やかな雰囲気で終わった。
よかったじゃないか。と思う。
よかった。
そういうことにして、数日前に、なんとか東京に帰ってきました。
こうやってツラツラ書いていて、東京が私の帰る場所になっていることを、しみじみと思う。東京に暮らせてよかった。
故郷は故郷でしかなく、もう住む場所でも帰る場所でもない。
道がどんどん補正されていって、そろそろ私の知っている街でもなくなりそう。
東京の空気は汚いらしいのだけど、私には故郷の空気よりもずっと、吸いやすいし吐きやすい。
私の肺も、ちゃんと汚くなっているだろうか。きれいなままだと、少し困っちゃうな。
故郷にいた時に泊まっていた家には、猫が5匹ほど暮らしていた。
毎日葬儀のあれこれをこなして、疲れ果てて戻る家に猫がいるというのは、とても良いものだった。
猫を眺めたり、たまに撫でさせてもらったり、餌をやったりしている時間は、どうしようもなく優しい気持ちになってしまって、癒されてしまう。
あまりにも疲れて半日寝込んだ日があったのだけど、その日は猫が足元で一緒に寝ていた。
私は眠るのが苦手なはずなのに、猫と呼吸を合わせるとウトウトとして、夢も見ないでぐっすり眠れた。
虚無は来なかった。
次に引っ越す先は、ペット可の物件にしてみようかしら。そんな事を考えるくらいには、猫の効果は絶大でした。
引っ越した先もまた、東京のどこかである事は絶対に変わらないのだろうけれど。
腐ったジャムに懺悔したりする
冷蔵庫の奥に置いて、ほとんど食べてないまま賞味期限が切れてしまい、そこからさらに半年以上が経過したブルーベリージャムを捨てなきゃ捨てなきゃと思っていて、まだ捨てていない。
冷蔵庫を開けるたびに思い出すんだけど、明日はゴミの日じゃないとか、今日は疲れてるからとか、そういう言い訳を自分にして、いつも見なかったことにして冷蔵庫のドアを閉めてしまう。その時はいつも、少しの罪悪感からなのか、ドアを閉める音が小さくなる。
その、在るのにほぼない事にして暮らしていて、でも視界の片隅には映ってるみたいなかんじ。
むかし同じ家に住んでいた恋人と別れることになった時、それが決まってから引越しするまでの間のかんじに似てるなあと思った。
相手への愛憎とかそういうのはとっくになくなっていて、同じ空間にいる意味とかもなくなっていて。その頃の事は意図的に忘れようとして忘れていったのでよく覚えてないんだけど、別れることが決まってからの事務的な話がスムーズに進んだのは覚えている。
それまでは顔を合わせればお互いを罵るような事まで言っていたはずなのに、朝起きてキッチンで鉢合わせても「おはよう」と挨拶ができるほどだった。どうしようもなく他人だったから。
相手に全く興味がない方が、何も考えずに優しく接することができるって、ありますよね。
知り合いレベルでも深い愛で繋がった相手でも、お互いが興味を持ちあっている間は、たぶん関係の賞味期限というのがあって、それを短くするのも長くさせるのも、自分と、その相手の心や言動で変わっていくのだと思う。片一方だけでどうにかできるものじゃない。
友達でも恋人でも家族でもなんでも、なるべく鮮度のよい関係の人と付き合っていたいし、賞味期限が切れてしまったものはとっとと捨てた方がいいと思い込んでいるフシが、10年以上前から私にはあった。
酔っ払った日とかに、その話を親しい友人に熱弁したこともある。「なんだって、鮮度は大事じゃん? 相手に飽きられないようにしたいし、自分もそう思える人と仲良くしてたいじゃん? やっぱさあ!」みたいなことを偉そうに語ってるわけです、ジャム一つきちんと食べ切れない人間が。過去の私に会えるなら、その話を全力で止めてあげたい。全く笑えないコントみたいなので。
賞味期限切れのジャムをまた捨てれなかったけど、そういう自分もまあ少しは許してやってもいいんではないか? そんで、鮮度のよい関係だけで自分の周りを固めようだなんて、傲慢なんじゃなかろうか? とふと頭をよぎったのが、ついさっきで。
つまり、昨日までは人間関係は鮮度が大切! って信じてたわけです。ほんと、些細な事から自分の考えって変わってくもんですね。
もしかしたら私が賞味期限切れだと思っていただけでまだ繋がっている関係とか、逆にこちらはまだ大丈夫だと思っていた関係がとっくの昔に切れていたとか、自分に限らずみんな、そういうのにまみれて生活してるんじゃないかと思った。
賞味期限切れでも案外まだいけるものとかあるし、そもそも片一方だけでどうにかできるもんじゃないはずの人間関係の賞味期限を、自分一人で判断して勝手に捨てるだの残すだのなんて、できないのだ。本当は。
でも、そうやって自分勝手に「もうこの人とは期限切れだ」って思い込まないとやってられない時ってあって、おそらく自分にはそういう瞬間が多かったんだろう。実際にそれで気持ちを切り替えて前を向けたこともあるので、その考え方を悪いなんて言えない。
ただ、なんていうか、今後はもしかしたら、賞味期限が切れてると自分で思っている人間関係が、なにかのタイミングで急に鮮度を持って輝き出すこともあるかもしれない。人との関係に見切りをつけるのが早いタイプの自分には未知の世界なので、どうなるかも分からないけど。
私は自分に関わる人にはどこかケッペキで、真面目に向き合いすぎて「とりあえず冷蔵庫に置いておく」みたいなことをしてこなかったような気がする。
食べ物は放置するくせに、人間関係の賞味期限が切れそうになると、とりあえず冷蔵庫から出してみて匂いを嗅いだり熱を通してみたり、まだなんとか食えるんじゃないか、みたいなアレコレをやってしまう。結果的にそれは全く食えないシロモノになってしまって、泣く泣く捨てたりするハメになっていた。賞味期限までは美味しく食べれたはずなのに。もったいないし、失礼な行為だったんじゃないか。
でも結局食べずに置いといて冷蔵庫に入れっぱなしのジャムは、賞味期限が書いてる日付のとおりに切れちゃうので、悪あがきも仕方ないような気もする。悪あがきしてる間って、なんかまだ愛があるってことじゃないですか。
さっきググってみたら、ジャムはジップロックに入れて冷凍保存しておいた方がいいと書いてあった。糖分が多いからガチガチに固まらないで、スプーンですくえるらしい。
食べたい時は使う分だけ出して、しばらく室温で戻して使えばいいんだそう。そんなこと知らなかった。
そんな丁寧な暮らしやってられるかよとも思ったけど、もっと早くにググればよかったと素直に感心してしまったし、これでジャムを延命することは覚えた。覚えただけだけど。
海を汚す
パソコンが壊れた。
本当は嘘で、ずっと使っていた、重くてゴツくて可愛くないけど、割となんでもできるノートPCのサポートが、結構前に終了していたというのが本当の話です。まだ彼は動くというのにかわいそう。使えなくなった私もかわいそう。今後はインターネットに繋いでも危険だとか何だとかで、動くのに何にもできない金属の塊が家の中にひとつ増えただけになってしまった。ちなみに他の塊は、壊れたけれど捨てられない昔使ってたガラケーとかです。捨てればいいのに。
これを人に言うのが面倒なので、パソコンの話になると「パソコン壊れてから買ってないんだよねえ。」と誰も得も損もしない嘘をついてやり過ごしています。
パソコンが使いものにならなくなっても、さして日常で困るということはなく2年以上が経過している。取り外しのできるキーボードが付いてるタブレットで、パソコンでやりたいはずの殆どのことが事足りてしまう(excelとかも使えてしまう)し、ていうか殆どのインターネットの用事をiPhoneで済ましているし、結局まだ新しいパソコンを買っていません。
多分私にとってパソコンとは仕事をするための道具であって、自分の心を吐露するためや娯楽のための金属じゃないんだろう。パカパカと開閉するケータイを使用していた昔から、ホームページの更新もブログの更新もmixiも、当たり前だけどTwitterも、趣味や生活に関する文章を書くのは片手に収まる携帯電話かスマートフォンで行なっているのだった。ベッドで横になりながらiPhone片手にしている時が、一番書き物が捗るのです。多分、こういう人は少なくないと思う。
こんな女子高生みたいなパソコンとの付き合い方をしている私だけれど、仕事はいわゆるウェブ系というやつをやっている。今は環境がどんどん進化していって、wifi飛んでてパソコンがあれば、どこでも仕事ができます。そんな仕事をしているのに、週5で会社に通って、8時間きっちり働いている。たまに残業とかもしちゃう。別に自宅でも仕事できるはずなんですけどね。実際、ゴールデンウイークは一応10連休ということになっているのだけど、毎日1〜2時間は会社から持ち帰っているパソコンと向き合っている。少しだけどんよりした気持ち。
また新しくブログでも始めようかなと思い至ったのは、結局私はワールドワイドウェブで自分の居心地のいい場所を作っておかないと、生きていかれないんだと悟ったからです。
日常を垂れ流すことはTwitterでもやっているけれど、やっぱり140字じゃ足らないよ。それに、Twitterはミニブログということなので、好き勝手を垂れ流してていいはずなんだけど、あの人のタイムラインを占領するのは気が引けるなあとか、もし同僚に見られたら嫌だなあとか、エゴサされることへの配慮だとか、そういうことを考えてしまって、ツイート数は昔に比べてだいぶ減ってしまった。特定の人の名前とかをツイートする際は、エゴサ前提でしかやらなくなりました。エゴサされて御本人からイイネされるのは、それはそれで嬉しいんだけどさ。
今のTwitterは友人や好きな人の様子を見たり、コミュニケーションするツールとして使っていて、10年くらい前の「よく知らんけど面白いこと書く人だな、って思った人たちの呟きをお互い一方的に勝手に見てる」って感じの世界じゃなくなってしまった。今は今で楽しいんだけれど、私は顔も知らない人の日常を覗き見したりされたり、そういうのが好きだった。
で、そんな事を頭の中で巡らせていたら、だいーぶ前に友人宛に一記事だけ書いた後、ずっと放置してたここの存在を思い出した。せっかくなのでリサイクルして、またワールドワイドウェブに駄文をたれ流していくことにする。なにより、これは自分のためです。